112の瞑想秘法の書 】
上巻で紹介されている瞑想技法例(抄訳)

<スートラ1>
光り輝く者よ、この体験はふたつの息の間に起こる
息が入った後、息が出る直前━━そこに賜物がある

この二点の間に目覚めると、そのことが起こる。息が入るとき観察してごらん。息が出る前、息が上向きに変わる前、一瞬の間、あるいは一瞬の千分の一の間、呼吸は存在しない。息が入り、そしてある一点において呼吸は止まる。それから呼吸は外に出る。息が外に出るとき、再び一瞬の間、あるいは一瞬よりさらに短い間、呼吸は止まる。それから呼吸は中に入る。息が入り始める前、あるいは出始める前、一瞬の間あなたは呼吸していない。その瞬間そのことが可能となる。なぜなら呼吸していないとき、あなたはこの世界にいないからだ。
まず、入ってくる息を意識する。それを見つめる。すべてを忘れ、ひたすら入ってくる息を━━まさにその流れを見つめる。息が鼻孔に触れたとき、その息を鼻孔で感じる。そして息が中に入るにまかせる。完璧に意識して息とともに動く。息とともに下へ、下へ、下へといきながら、その息を見失わないようにする。先にいき過ぎたり、後に遅れたりしないように、ひたすら息と一緒に進む。これは大事なことだ。先にいき過ぎたり、影みたいに後からついていったりしないで、息と同時であることが必要だ。  息と意識をひとつにする。息が中に入るとき、あなたも中に入る。そうして初めて、ふたつの息の間にある一点をつかむことができる。


<スートラ5>
眉間に注意を集中し、マインドを思考の前に置く
息の精気をもって身体を満たす━━頭頂まで
そしてそこから、光として降り注がせる

目を閉じ、両目の焦点を両眉の真ん中に合わせる。閉じた目で、あたかも自分が両目で見ているように、その焦点を真ん中に合わせる。すべての注意をそこに向ける…。注意がそこにきたら、きっとあなたは生まれて初めて、ある奇妙な現象を体験するだろう。生まれて初めて、思考が自分の前を動いていくのを感じる。あなたは観照者となる。それはちょうど映画のスクリーンのようなものだ。思考が動いているが、あなたはその観照者だ。いったん注意が「第三の目」のセンターに集中したら、あなたはたちまち思考の観照者となる…。
第三の目に焦点を合わせることによって、突然、息の精気が感じられる━━息ではなく、息の精気そのものであるプラーナが。そして、息の精気つまりプラーナが感じられたら、あなたはもうジャンプの起こる地点にいる。決定的飛躍の起こる地点にいる…。
呼吸の精気、つまりプラーナが感じられるようになったら、頭がそれで満たされていると想像してみる。つぎにこの精気が頭全体を満たしていく様を想像する。とくに頭頂にある霊的なセンター、サハスラーラが満たされる様を。そのように想像したとたん、それは満たされる。そこから(頭頂から)光として降り注がせる。このプラーナの精気が頭頂から光として降り注いでいる。そしてそれは本当に降り注ぐ…。(プラーナの)シャワーの下で、あなたは爽やかになり、生まれ変わり、まったく新しくなる。


<スートラ11>
蟻の這うのを感じるとき、諸感覚の扉を閉じる。そのとき━━

たとえば、足にとげが刺さった。痛い。ちくりとする。あるいは、一匹の蟻が脚の上を這っている。その這っているのを感じ、突然、それを払い除けたくなる。どんな経験でもいい! けがをした……痛い! 頭痛がする、身体のどこかが痛い……対象はなんでもいい。蟻が這うというのはただの一例だ。なにを感じていようとも、諸感覚の扉を全部閉じるのだ。
五感すべてを閉じる。どうやって閉じるのか。それは簡単だ。一瞬の間、呼吸を止める。するとあらゆる感覚は閉ざされる。呼吸が止まり全感覚が閉ざされたとき、さて、その「這っていること」はどこにあるか。その蟻はどこにいるか。突然、あなたはどこかへ行ってしまう??はるか彼方へ。……
身体は世界の一部だ。世界に対して完全に閉ざしていれば、自分自身の身体に対してもまた閉ざしている。そのときシヴァは言う、「そのとき、そのことが起こる」……全世界が消え失せる。……あなたは自分自身へと投げ返される……あなたは自分の中にセンターを定めている。そのとき初めて、自分のセンターから見ることが可能となる。ひとたび自分のセンターから見ることができるようになれば、あなたは二度と再び同じ人間ではなくなる。


<スートラ16>
祝福された者よ、諸感覚がハートに吸い込まれるとき、
蓮の中心に達せよ

触ってごらん。目を閉じて、なんでもいいから触ってみる。愛する彼女や彼氏に触ってみる。自分の子供や、母親や、友人に触ってみる。木や花に触り、あるいはただ大地に触ってみる。目を閉じ、ハートから大地への交流を、あるいは恋人への交流を感じてみる。「自分のハートが伸びて手となり大地を触っている」と感じてみる。その感触をハートに結び付ける。
音楽を聴いているときも、頭で聴かない。ただ頭を忘れ、自分には頭がないと感じる。頭などないと感じる。頭のない自分の写真を寝室に貼っておくといい。それに集中する。あなたは頭なしだ。頭を介入させない。音楽を聴くとき、ハートから聴く。その音楽がハートにやってくるのを感じる。ハートをその音楽とともに振動させる。自分の諸感覚をハートに合流させる。頭にではない。同じことをあらゆる感覚で試してみる。それぞれの感覚がみなハートへといき、その中に溶け入ることを、もっともっと感じていく。


<スートラ21>
神酒に満たされているあなたの身体のどこかを針で刺す
そしてゆっくりとその刺すことの中に入り、
内的な純粋さに到達する。

たとえば、身体になにか痛みがあるとき、やってごらん。身体全体を忘れ、痛い部分にだけ集中する。すると奇妙なことに気づくだろう。痛い部分に集中すると、その部分が小さくなっていくのだ。最初は脚全体が痛いと感じる。だが集中すると、それが脚全体ではなくなってしまう。つまり誇張だったのだ。痛んでいるのは膝だけだ。
さらに集中する。するとそれが膝全体ではなくなり、針先ほどの点になっていく。さらにその針先の点に集中する。身体全体を忘れる。目を閉じて集中を続け、その痛みがどこにあるか捜してみる。すると痛みはどんどん縮小していく。その範囲はますます小さくなる。そのうち痛みはただ針先ほどの点になる。その針先の点を見つめ続ける。すると突然その針先の点は消え失せ、あなたは至福に満たされる。痛みの代わりに、至福に満たされる。


<スートラ24>
誰かに対する反感ないしは好感が生じるとき、
それを相手に向けず、中心にとどまる

憎しみを感じるとき、その対象へと向かわず、その憎しみの源である一点へと向かう━━その憎しみの対象となる相手ではなく、その憎しみの源である一点へと向かう。中心へ向かい、内側へと入る。自分の憎しみや、愛や、怒りなどを使って、自分の内なる中心へ、源泉へと向かって旅をする。源泉へと向かい、そこに中心を定める。
あなたはいつも他人に投影しているが、その源泉はすべて自分にある。好感や反感があるときには、いつでもすぐに内側へと向かい、その憎しみの源泉へと赴くのだ。そこで中心を定め、対象には向かわない。誰かのおかげで自分の怒りに気づくことができたら、すぐに相手に感謝し、そして相手を忘れる。目を閉じ、内側へと向かう。この愛や怒りの源泉を見つめる??それがいったいどこからくるのか……。内側へ赴き、内側へ向かえば、源が見つかるだろう。怒りはあなたの源泉からやってくる。……


<スートラ25>
なにかをしようという衝動が現れる
まさにそのとき、止まる

これはどこでもできる。風呂に入っているとき、突然自分自身に「ストップ!」と命令し、そして止まる。ほんのひとときであっても、きっとあなたは自分の中に違った現象が起こるのを感じるだろう。あなたは中心に放り込まれ、突然すべてが止まる。身体だけではない、身体が完全に止まるときにはマインドも止まる。自分で「ストップ!」と言うときには、呼吸もしてはいけない。すべてを止める。呼吸もせず、身体も動かさない。ひとときの間、停止したままでいる。そうすればきっと感じるだろう??自分が突然ロケット・スピードで中心まで突き進んだと。……。
自分になにかの衝動があるとき、なにかをしようとする衝動があるまさにそのとき、止まる! 生理的な衝動だけにかぎらず、どんな衝動でもいい。たとえば、一杯の水を飲もうとしている。あなたは水に、コップに触れる。そして突然止まる。手はそのままにしておく。飲もうとする欲求、渇き、それも内側にそのままにしておく。でもあなたは完全に止まる。コップは外にある。渇きは内にある。手はコップの上にある。目もコップの上にある。突然止まるのだ。呼吸なく、動きなく??まるで死んでしまったかのように……。その衝動、その渇きがエネルギーを解き放つ。そしてそのエネルギーは中心へと進むために使われる。あなたは中心へと放り投げられる。


<スートラ28>
力や知識が徐々に奪われていくと想像する
その喪失の瞬間、超越する

横になって、リラックスし、あたかも「自分の身体が死んでいく」と感じてみる。目を閉じ、自分が死んでいくと感じる。するとほどなく身体が重たくなっていくように感じるだろう。「自分は死んでいく、死んでいく、死んでいく」と想像する。もしその感覚が本当のものだったら、身体は重たくなっていく??まるで身体が鉛になったかのようだ。手を動かしたくても動かすことができない……それほどに重く、死んだようになる。ひたすら「自分は死んでいく、死んでいく、死んでいく、死んでいく、死んでいく」と感じていく。そして「今こそ、その瞬間だ」と感じたら、「あとひと飛びで死んでしまう」と感じたら、そのとき、突如として身体は忘れ去られ、超越が起こる。


<スートラ32>
あたかも初めて見るかのように、うるわしき人、
あるいはありふれた対象を見る

いつもと同じ通りを歩いているときでも、新鮮な目でそれを眺めれば、それは新しい通りだ。見知らぬ人のように友人と会う、また、まだ知り合っていなかった頃のように、妻を見る……。いったい、彼や彼女がいまだ見知らぬ人間ではないと言い切れるだろうか。もう二十年も、三十年も、四十年も、妻と一緒に暮らしてきたところで、はたして彼女と知り合いだと言えるだろうか。彼女はいまだ見知らぬ人間だ。ふたりの見知らぬ者同士が一緒に暮らしている。互いの外面的な癖、外面的な習慣は知っている。だが存在の内面的な核は知らない。触れたことがない。
もう一度新鮮な目で見てごらん、あたかも初めてであるかのように。するとあなたの見るものは、いつも同じ見知らぬ人間だ。なにひとつ、なにひとつ、古くなっていない。すべては新しい。それによってあなたのまなざしは新鮮になる。あなたの目は無垢になる。そのような無垢な目にはものが見える。そのような無垢な目は、内側の世界に入っていける。


<スートラ38>
音のただ中で音に浴する
たとえば絶え間ない滝の音の中で
あるいは耳に指を入れ、音の中の音を聴く

「あらゆる音が自分に向かってやってくる、自分はその中心だ」と感じてみる。そしてあらゆるものが自分に向かってやってくる━━自分に向かって落ちてくる。それを繁華街でやってごらん。目を閉じ、そしてまわりじゅうの音をすべて感じてみる??あらゆる方向から、あなたという中心に向かって音が降ってくるのを……。なぜ「自分が中心だ」という感覚がこれほど強調されるのか。それは、中心には音がないからだ。中心は無音だ。だからこそ音が聴こえるのだ。そうでなければ音は聴こえない。中心は絶対的な静寂だ。どこに中心があるのか、自分の中のどこに音がやってくるのか、そのどこかを見つけたら、突如として音は消え去り、あなたは無音性の中へ入る。そのとき突然、意識の転移が起こる。一瞬前には音に満ちた世界を聴いていたのに、突然、あなたの注意は内側へと向かう……あなたは無音性を、生の中心を聴く。いったんそれを聴いたら、もはやどんな音にも掻き乱されることはない。


<スートラ41>
弦楽器を聴いているとき、その複合的な中心音を聴く
そうして遍在が━━

楽器を聴いているとしよう。シタールでもなんでもいい。いろんな調べが奏でられているが、覚醒をもってその中心核を聴く。その中心核とは、背骨のようなものだ。すべての調べがその背骨をめぐって浮かんでいる。音楽を聴いているとき、覚醒を保ち、その音楽に入っていく。そしてその背骨を見つける??すべてを支えて流れ続ける中心核を??。音楽とは外側のものだ。シタールを奏でるということは、たんにシタールを奏でるだけではない。内側で自分の覚醒を奏でている。外側ではシタールが鳴り、内側では彼の覚醒が活動している。外側では音楽が流れているが、彼はつねに音楽の最奥の核に覚醒している。それがサマーディをもたらす。それがエクスタシーとなる。それが絶頂点となる。


<スートラ46>
耳を押さえてふさぎ、直腸を収縮させてふさぎ、
音の中に入る

自分の耳をふさぎ、直腸(肛門)を引き締めれば、直腸を収縮させれば、自分に対してすべてが停止する。まるで世界全体が動きを止めたかのようだ、まるですべてが静まり止まったかのようだ。動きばかりでなく、時間も止まったかのようになる。自分の内側にある音の柱が感じられるだろう??その音は沈黙の音だ。内なる音を聴くというまさにこの現象によって、思考が溶け去る。一日のうち、いつでもいいから試してごらん。直腸を引き締め、指を耳の中に入れる。耳を押さえ、直腸を引き締める。きっとマインドは停止するだろう。この内なる音は、一度聴いたらもう耳から離れない。一日じゅう聴くことができる。騒音の中でさえ、この内なる音は聴こえる。その静かで小さな音は内側で続き、あなたはそれを感じる。もうなにも邪魔にならない。あなたは静かなままだ。まわりでなにが起ころうと、なにも変わらない。


<スートラ48>
性交を開始するとき、初めの火に注意を向け、
それを継続しながら、終わりのおき火を避ける

「始め」にとどまり、「終わり」に向かわない。性行為をどこかにいくための道とみなさないことだ。手段とはみなさない。性行為はそれ自体が目的だ。向かうべき目的はない。性行為は手段ではな未来のことを考えず、現在にとどまる。もし性行為の始めの部分で現在にとどまらなかったら、あなたはけっして現在にとどまれない。つまり性行為というものは、人を現在に投げ込む性格を持っている。そして、ふたつの体の出会い、ふたつの魂の出会いを楽しむ。そして互いの中に溶け込む……互いの中に没入する。「どこかへいく」などということは忘れる。深く溶け合ったまま、その瞬間にとどまるのだ。それはひとつの法悦になり、三昧になる。このことがわかったら、このことが感じられ認識できたら、性的なマインドは非性的になる。そしてどこまでも深いブラフマチャリヤ(性的禁欲)が達成できる。禁欲がそれによって達成できる!


<スートラ58>
このいわゆる宇宙は、見たところ、曲芸か紙芝居のようだ
それをそのように見て、幸福になる

あなたが不幸だったとしたら、それは生を深刻にとりすぎているからだ。だからといって、なんとかして幸福になろうとしてはいけない。ただ、自分の姿勢を変えるのだ。深刻なマインドをもって幸福になるのは不可能だ。祝い楽しむマインドがあったら、幸福になれる。この生全体を、ひとつの神話、ひとつの物語としてとらえる。生をそのような具合にとらえたら、もう不幸ではなくなる。あまりに深刻だからこそ、不幸になるのだ。七日間試してごらん。七日間ただひとつのことだけを思い出すのだ??世界全体はただのドラマだと。そうすればあなたは変わる…。だからこれを試してごらん。すべてを、お祭りのように演技として行なう。もしあなたが夫だったら、演じてみる。役割上の夫となる。それをただのゲームにする…。あなたは役を演じ、そして眠りにつく。しかしあくまでも、それは役割りだ。そして七日間ずっとその姿勢を続ける。そうすれば幸福が起こるだろう。


<スートラ60>
私の中の対象と欲求は、他人の中にも同じように存在する
そのように受け容れれば、それは変容される

自分が貪欲であることを知り、自分に怒りがあることを知り、自分の性欲が強いことを知る。それを自然な事実として、なんのとがめもなく受け容れる。抑圧する必要はない。するとそれはマインドの表層に出てくる。そして表層に出てくれば、そこからはまったく簡単に捨て去ることができる。暴力的なマインドがどうして非暴力的になれるだろう。自分に非暴力を強いること、それは自分に対する暴力だ。あるものを他のものに変えることは不可能だ。あなたにできることは、ただ、気づき、受容的であることだけだ。貪欲をあるがままに受け容れる…。受け容れとは、ただ、その事実を、自然な事実を、ありのままに受け容れるということだ。貪欲があることをよく知りながら、生に向かう。貪欲があることを念頭に置きながら、何でも自分のしていることをする。この気づき(覚醒)があなたを変容する。




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